イエス教長老会 平安教会

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祈りの基本

祈りとは神との交わりの時であり対話の時です。ですから会話が成立しなければなりません。ところが神との交わりとか対話という宗教慣習のない私たち日本人は、既存の宗教の影響を受けざるを得ません。ですから祈りが願掛けになったり、念仏を繰り返すようなかんじで同じ言葉を繰り返す事が祈りであるかのように錯覚しがちです。また中には祈っている姿を見せびらかして悦に入る人もいたりします。

イエスはこれらの間違った祈り方を避けるように教えました。

「また、祈るときは、偽善者のようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ伝6:5-8)

まずは神に語りかけて見てください。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33:3)

神に語りかけ、神のお答えを待つ。これが祈りの基本です。
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by heianchurch | 2013-10-12 00:38

教会創立26周年記念礼拝

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教会創立26周年を迎えました。
神様の恵みに感謝します。
これからも神様がもっと喜ばれる教会になりますように。
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by heianchurch | 2013-10-08 23:22

アガペーの愛

キリスト者はよく愛という言葉を口にしますし、教会の説教でも必ずと言っていいほど愛という言葉が出てきます。キリスト教は愛の宗教だと言われたりもします。キリスト教を語るにあたって無視することの出来ない愛。しかし、キリスト教でいうところの愛の概念を理解している人は多くないと思われます。

私たちキリスト者は、愛が人間社会から生み出されたとは考えていません。愛もまた神が創造されたものと考えています。神は祝福として人に愛をくださったのですが、堕落してその愛を悟り得なくなったのです。

こう聞くとますます意味が分からなくなったと思います。それも当然です。世間一般で使われている愛と聖書で語られている愛は、全くの別物だからです。新約聖書はコイネーというグレコローマン時代の庶民が使っていたギリシャ語で書かれています。ギリシャ語では、愛を意味する単語が何個もあります。男女間の恋愛や夫婦愛はエロスといい、世間一般で愛といえば大抵これを指しているようです。その他に情愛や肉親間の愛を表すストルゲー、友愛や兄弟愛を表すフィリアー、そして自己犠牲の愛であるアガペーがあります。世間では普通、愛といえばエロスを想定して会話をしているのですが、キリスト者は自己犠牲の愛であるアガペーを想定して会話をしますので、話が通じないのも当然です。

生まれつきのキリスト者などほとんどいないわけだし、キリスト者も信仰を持つ以前はエロスしか知らなかったわけですから、いくらキリスト者になったからといってアガペーの愛を前提にしてキリスト者以外に一方的に話をするというのは控えるべきでしょう。これでは信者と未信者の間に齟齬が生じるのも当然と言わざるを得ません。

さて、聖書は、私たちにアガペーの愛を理解させるために、神はキリストを犠牲(いけにえ)にされたと教えています。キリスト・イエスは、私たちが罪の赦しを得ることができるようにと、罪を全部被って、身代わりとなって死んでくださったという文字通り自己犠牲の愛を示されたのです。そして、私たちも同じように人々のために、自己犠牲の愛に生きることを求めています。

12弟子の一人、ヨハネは次のように語っています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)

しかも、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」とまで言っています(第一ヨハネ3:15)

そして、「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(第一ヨハネ4:8)とあります。

キリスト者もこれらの御言をよく知っていれば、容易くアガペーの愛を口にすることなど出来ないはずです。キリスト者にとって愛とは命懸けなのです。逆に、そのような命を懸けたアガペーの愛が教会から影を潜め、キリスト者であるにもかかわらず自己中心的な愛に没入する者が増えたことが、教会の凋落の原因なのかもしれません。

今日はヨハネの訴えかけに耳を傾けましょう。

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行ないをもって誠実に愛し合おう。」(第一ヨハネ3:18)

命懸けのアガペーの愛を悟り、実践することが出来ますように。
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by heianchurch | 2013-09-20 22:53

偽善を警戒しよう

カルヴァン派の教理教育でよく利用されているウエストミンスター小教理問答の第一問は、カルヴァン派の信条を端的に表現しているとして有名です。

(問1) 人のおもな目的は何であるか。

(答) 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。

ジャン・カルヴァンは神の主権を強調しました。プロテスタントの離脱・独立により西方教会が分裂するまでは、高級祭司の権威が膨張し過ぎて、それが聖の俗化をもたらしました。カルヴァンは神と人との仲裁者はイエス・キリスト以外に存在し得ないし、救いへと導かれる方も祭司ではなく全能なる神ご自身であるとして、神の絶対主権を提唱したのです。主権が神にあるのに、神の名により権力を振りかざす当時の堕落したカトリックの違法性を証明しようとしたのです。

神の主権的導き(聖定)により召し出されたキリスト者は、前掲の(問1)に対する答を信仰生活の目標にしなければなりません。カルヴァン派のキリスト者であるならば、必ず学んだはずのこの教理を果たしてどれだけの人が実践出来ているでしょうか。

カルヴァンは神の絶対主権を唱えることで全ての信者を神の前で公平であるとし、神から与えられた賜物に従って働くことが、神の栄光をあらわすことになると同時に、神を喜ぶことにつながるとしながら、教会における職分は賜物の違いに過ぎず、カトリックのようなヒエラルキーではないとしました。

ところがやはり人間は罪深いのか、カルヴァン派の教会の一部は、職分をヒエラルキーに変質させてしまい、その職分が神の名により付与された事を執拗に強調して、神の後光を帯びて信者を支配しようという堕落した中世カトリックの祭司以上に悪質な事をやってのける不届千万な連中が跋扈し始めました。特に、韓国から流入した長老派にこの傾向は顕著です。

さて、カルヴァン派の一部でなぜこのような脱線が始まったのでしょうか。その理由を知ることができる言葉があるので、それを紹介したいと思います。

「内的に生活して神を喜ばせ奉ることができず、ただなだめ奉ろうとする者は、禍なるかな。」(クレルヴォーのベルナルドゥス)

12世紀のフランスの神学者であったクレルヴォーのベルナルドゥスの言葉です。御言を生きる生活をして神に栄光を帰することをせず、礼拝行為に終始して神のご機嫌取りをするような連中を禍だと語っています。神のご機嫌取りは、敬虔さの指標ではありません。ところが、禍なる連中は、ご機嫌取りの演技を敬虔さの現れであるように見せかけるのです。こうして彼らは、腐敗した中世カトリック教会のミニチュアを自分らの教会に作り上げているのです。

イエスはこう語っています。

「イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」(ルカ伝12:1b)

ここに出てくる「偽善」という言葉のギリシャ語は「ヒュポクリシス」という単語が使われており、元々の意味は、演技するという意味です。イエスがここで言いたかったのは、パリサイ派の連中が栄光を帰して喜びとするのは、そもそも神であったはずなのに、神を仰がず、会衆に見せるために自分の敬虔さを演技して見せていたことを警戒し、弟子たちに影響されて真似しないようにということだったのです。

人間には他人に評価してもらいたいという根源的欲求があります。聖書ではそれを肉の欲と呼んでいます。キリスト者はこの肉の欲に影響を受けないように御霊の導き、つまり神の主権的導きに従って生きるのです。ですから私たち人のおもな目的は、神の主権的導きにより、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」なのであって、神の栄光をあらわしているふりをして、永遠に神を喜んでいるように見せかけて高慢になることではないということです。斜陽する今日の教会の問題の根元の一つは、まさにここにあるといっていいでしょう。信仰とは人に見せびらかすものではありません。ただひたすら神に感謝し、御言を生きるのみです。
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by heianchurch | 2013-09-14 21:45

まずは悔い改めから

2020年の夏季五輪開催都市として東京が選ばれました。子供たちに夢を与えられるという点では、非常に喜ばしいことだと思います。みんなで盛り上げていきましょう。

さて、開催都市として東京が選ばれた理由の一つに、豊富な資金がありました。巨額ではありますが、捻出可能ではあるでしょう。ただ私が心配しているのは、東日本大震災の被災者たちを財政的に支えつつ、それが可能なのかということです。それともう一つは、政財官界の構造的問題を解決しながらオリンピックの準備ができるのかということです。政財官の癒着が隠蔽体質の原因ですし、そのことが震災後に東電の問題などでより鮮明になりました。最近は、検察や警察の汚職まで深刻化しています。

ウラル国立大学のゲンナジ・ブルブリス教授は、「原発のような巨大なシシテムが事故を起こす時は、必ず国家や社会の構造の不具合もパラレルに起こっている。」と述べています。原発問題がなかなか解決しない理由の一つに政財官界の腐敗と隠蔽体質があるのは間違いありません。これを綱紀粛正せずにオリンピックの準備に突入したら、原発問題を犯したのと同じような面子が、同じような失敗をしかねません。これだけは御免蒙りたい。

いろいろイベントをやって活気付くにはいいことですが、構造改革という国家の悔い改めがなされない状態でイベントばかりやったところで、国はますます疲弊するだけです。ですから、素晴らしいオリンピックにするためにも、安倍首相に国家的大手術を敢行して、腐敗や汚職といった悪性腫瘍を取り除いてもらいたい。その上で、国民が一丸となってオリンピックの準備に励めばいいと思う。

被災地の復興もオリンピックの準備の一環です。絶望的状況から立ち上がる姿が世界中にどれ程の勇気を与えるでしょうか。これは外せません。これをはずしたら世界中から自国民を犠牲にしてまでイベントにこだわる道楽国家との誹りを免れないでしょう。

やはり、国も私たち一人一人も悔い改めて再スタートを切る必要がありそうです。今日は最後にイエスの12弟子の一人であったヨハネの言葉を見てみましょう。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:8-9)
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by heianchurch | 2013-09-10 22:53

弱い箇所に働いてくださる神様

自分が今どういう状態におかれているのかを知ることはとても大切なことなのですが、それを知ることは非常に難しいようです。どういう状態にあるのかが分かれば、打開策が見つかります。事態を好転させるためには、冷静に状況を把握して事後策を練らなければなりません。

一方、自らのおかれている状況を冷静に分析すると、不甲斐ない自分の現住所が明らかになりますので、これを恐れて冷静な分析を断念してしまう人も多いようです。しかし、これを恐れていては、前進が阻まれるだけでなく、ついには舵の効かなくなった船のように、世間の波に翻弄されて押し流されるがままの人生になってしまう恐れがあります。

自分を直視する事は非常に大切なことです。そこから逃れようとしないように気をつけましょう。

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ書4:17)

現実逃避はやめて、聖書の御言という鏡に自分を映し出して、自分の至らない点や罪、弱さなどを素直に認めて、その弱い箇所に神に働いていただきましょう。
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by heianchurch | 2013-09-06 22:56

前進し続けるには

絶対に勝てない相手を知っていますか。それは自分の理想です。自分の理想は、あくまで理想です。実現し得ないから理想であり得るのです。理想が叶いかけると、自分でも気付かないうちにハードルを上げて、またそれを乗り越えようと果てしない理想実現の旅を続けているのが私たち人間です。ですから、決して勝てないのです。

ただ問題は、絶対に勝てない自分の理想に叩きのめされて、しょぼんとしてしまう人がいるという事です。こういう人は、理想には勝てないという事を知らない場合が多いので、自分が決定的な敗北を喫したと思い、絶望してしまうのです。そこで彼らは理想の実現のために未来の目標に向かって進む事を諦めて、目を過去に向けてそれを後悔してみたり、過去に関わりのあった人を逆恨みしたりして、自分の傷を癒そうとするのです。しかし、私たちは過去に遡る事も出来なければ、それを修正する事も出来ないのです。それどころか、こういう人は、大事な事を忘れています。

どのような人でも、ある行為を行うにあたっては、出来る限りの情報を総合評価して、最善の判断を下しているのです。例えば、異性と交際する時に、不純な動機で交際するのでなければ、自分にとってピッタリな相手を選ぶでしょう。最悪な相手を最初から選ぶアブノーマルな人間は、皆無といっていいでしょう。しかし、そのようにして選んだ異性と破局を迎える事も場合によっては、ありますよね。確かに選んだその時は最善の判断を下して交際に踏み切ったにもかかわらず、こういう悲しい結末が待っていたりするのです。そうなのです。自分の判断は完璧のように思えて、実はそう当てにならない代物なのです。ですから過去を振り返って後悔してブツブツ言う時間があったら、別のアプローチを試してみるべきでしょう。異性の場合なら、その失敗が礎となって、よりぴったりの異性を選ぶ事ができるかもしれません。昔から失敗は成功の元と言いますが、理想を追い続ける事が出来る人とは、失敗を恐れない人、失敗を喜べる人なのです。

旧約聖書のイザヤ書に次のような御言(みことば)があります。

「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ書43:18-19)

前掲の御言は、バビロンに捕囚されているユダヤ人に対する神からの励ましであり解放の約束ですが、その条件として神は、悔い改めを要求しています。実はこれが大切なのです。過去の失敗は、素直に直視して、その問題点をあぶり出して、同じ失敗を繰り返さないようにしなければなりません。過去の歴史の清算をせずに先には進めないからです。

これは民族や国家のみならず、私たち一個人も同じです。過去に拘泥して先に進めない人は、過去の過ちを直視する勇気のない人なのです。しかし、もし彼が、人間の判断力など所詮当てにならないという事実を知っていれば、そこまで苦悩せずに、むしろどこに問題があったのかを冷静に見定めて、今後の戒めとしつつ、新しい第一歩を踏み出せるはずです。

キリスト者とはどんな人なのでしょうか。自分の弱さを自覚している人とも言えそうです。自分の努力では如何(いかん)ともしがたい限界や自分の判断力の不完全さを認めた人でなければ、救いや導かれる方を必要としないでしょう。自力本願など不可能なので、イエスという他力を求めるのです。

過去を直視し、至らなかった点を素直に反省し、悔い改めて、主イエス・キリストに導かれて前進しつづけるのがキリスト者なのです。

「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」(箴言24:16)

私たちキリスト者は倒れても立ち上がれます。過去を恐れないからです。むしろ今後の戒めとしながら、神が与えてくださるヴィジョンに向かって、キリスト・イエスと共に前進し続けるのです。自分は弱い、でも弱いがゆえに、そこに神は働かれるのです。
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by heianchurch | 2013-08-31 22:41

自由について

たまに残念なキリスト者に出会うことがあります。彼らは言います。自分は自由だと。そして自由だから今を楽しむのだと言います。しかし彼らは知らないようです。自由や権利には責任が伴うということを。

自分がやりたい事をやりたいようにやることが自由なのではありません。人は完全に人との交わりを絶って生きて行くことなどできません。それ故、周囲の人に影響を与えることなく自分だけで行為を完結することができないのです。ですから周囲の人に対する配慮を欠いた自由は、所詮、独り善がり行動に過ぎません。そういう人のことを最近の言葉で「自己中」だとか「K Y」(空気が読めてないの略)と言うのでしょう。

パウロは次のように語っています。

「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(第一コリント10:23-24)

聖書ではこのように他人の利益をを心がけるように勧告しているのですから、自分の利益だけをひたすら追求する自己中でKYな人は、キリスト者として問題があると言わねばならないでしょう。

考えてみましょう。果たして私は自由を、他人の利益のために用いているのだろうか。他人のために自分がしたいことを思い留まることができているのだろうか。

自由を隣人のために用いることができるように神が導いてくださいますように祈りましょう。
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by heianchurch | 2013-08-21 00:08

やるべき事はすぐにやろう

大学時代の私の指導教授は海軍兵学校を卒業され、敗戦後、大学で政治学を学び、政治学者として数十年にわたって、それこそ天に召されるまで教壇に立ち続けられた方でした。激動の昭和を生きた方ですから、講義の中でも、論文の中でも「激動」という言葉をよく使われていたのを思い出します。

激動の時代であった昭和から平成になり、少しずつ先送りにしていた問題が露呈し始めました。そして今日、それらの問題は一斉に火を吹いて、国民生活を圧迫しています。

これらの問題を解決しなければならない政治家たちは好んで「棚上げ」という言葉を使っていますね。ですがこれは問題の先送りに過ぎず、責任の放棄と言われても仕方ありません。責任の所在がはっきりしないので、誰も責任を取ろうとしません。玉虫色の言葉で巧妙に国民を欺く遣り口は、戦前も戦後も変わっていないのです。

最近、過去の歴史をどう評価するかがイシューの一つになっています。歴史の清算や見直しは必要な事です。であるならば、過去から現在に至るまで共通の問題事項である権利義務関係や責任の所在のはっきりしない統治原理を正すところからしっかりやるべきではないでしょうか。国民が国に求めているのはそういうことなはずです。もう激動の時代のどさくさに紛れて一部の団体に有利になるような権力の濫用はやめて欲しいのです。

聖書でも次のように戒めています。

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ書4:17)

政治の世界だけではありません。私たちも問題の先送りが多いのではないでしょうか。為さねばならぬ事を知りつつもそれを為さぬは罪ということを忘れないようにいたしましょう。やらねばならぬ事に気付いたらいつやるのか。答えは簡単です。「今でしょ!」。

やらなければばらない事を放棄する無責任な人間になる事がないよいに神が導いて下さいますように。
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by heianchurch | 2013-08-21 00:06

神の選び・予定について

イエスを救い主として信じる事は、どうやら難しいようです。宗教的バックグラウンドを知らない人たちにとっては、約二千年前、宗主国ローマへの反逆罪のかどで十字架で処刑されたユダヤ人イエスが、あなたの救い主であると言われて、「はい、そうですか」とすぐに信じるのは至難の技でしょう。死刑囚が救い主というのですから、遠慮したい宗教だと思われても不思議ではありません。

しかしそのようなおっかなびっくりな宗教を信じているキリスト者がなぜいるのでしょうか。

その理由は、信じることそれ自体も神が与えてくださるからです。逆に言うと、神が信じる心を私たちに与えて下さらなければ、信じ得ないのです。この信じる心、つまり信仰が与えられた者が、イエスを救い主と信じるキリスト者になります。そして、このような神の救いの計画をカルヴァン派では、一般的に「神の選び」だとか「予定」と呼んでいます。

パウロはこの神による選びを次のように紹介しています。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ書1:4)

こうして世界の基が置かれる前、つまり天地が創造される以前から、神は、イエス・キリストを通して救うことを予定しておられたわけで、その予定に入っている人たちが上でも述べたように、イエスを救い主として信じることができるように信仰が与えられ、キリスト者になるのです。
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by heianchurch | 2013-08-17 00:05