イエス教長老会 平安教会

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前進し続けるには

絶対に勝てない相手を知っていますか。それは自分の理想です。自分の理想は、あくまで理想です。実現し得ないから理想であり得るのです。理想が叶いかけると、自分でも気付かないうちにハードルを上げて、またそれを乗り越えようと果てしない理想実現の旅を続けているのが私たち人間です。ですから、決して勝てないのです。

ただ問題は、絶対に勝てない自分の理想に叩きのめされて、しょぼんとしてしまう人がいるという事です。こういう人は、理想には勝てないという事を知らない場合が多いので、自分が決定的な敗北を喫したと思い、絶望してしまうのです。そこで彼らは理想の実現のために未来の目標に向かって進む事を諦めて、目を過去に向けてそれを後悔してみたり、過去に関わりのあった人を逆恨みしたりして、自分の傷を癒そうとするのです。しかし、私たちは過去に遡る事も出来なければ、それを修正する事も出来ないのです。それどころか、こういう人は、大事な事を忘れています。

どのような人でも、ある行為を行うにあたっては、出来る限りの情報を総合評価して、最善の判断を下しているのです。例えば、異性と交際する時に、不純な動機で交際するのでなければ、自分にとってピッタリな相手を選ぶでしょう。最悪な相手を最初から選ぶアブノーマルな人間は、皆無といっていいでしょう。しかし、そのようにして選んだ異性と破局を迎える事も場合によっては、ありますよね。確かに選んだその時は最善の判断を下して交際に踏み切ったにもかかわらず、こういう悲しい結末が待っていたりするのです。そうなのです。自分の判断は完璧のように思えて、実はそう当てにならない代物なのです。ですから過去を振り返って後悔してブツブツ言う時間があったら、別のアプローチを試してみるべきでしょう。異性の場合なら、その失敗が礎となって、よりぴったりの異性を選ぶ事ができるかもしれません。昔から失敗は成功の元と言いますが、理想を追い続ける事が出来る人とは、失敗を恐れない人、失敗を喜べる人なのです。

旧約聖書のイザヤ書に次のような御言(みことば)があります。

「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ書43:18-19)

前掲の御言は、バビロンに捕囚されているユダヤ人に対する神からの励ましであり解放の約束ですが、その条件として神は、悔い改めを要求しています。実はこれが大切なのです。過去の失敗は、素直に直視して、その問題点をあぶり出して、同じ失敗を繰り返さないようにしなければなりません。過去の歴史の清算をせずに先には進めないからです。

これは民族や国家のみならず、私たち一個人も同じです。過去に拘泥して先に進めない人は、過去の過ちを直視する勇気のない人なのです。しかし、もし彼が、人間の判断力など所詮当てにならないという事実を知っていれば、そこまで苦悩せずに、むしろどこに問題があったのかを冷静に見定めて、今後の戒めとしつつ、新しい第一歩を踏み出せるはずです。

キリスト者とはどんな人なのでしょうか。自分の弱さを自覚している人とも言えそうです。自分の努力では如何(いかん)ともしがたい限界や自分の判断力の不完全さを認めた人でなければ、救いや導かれる方を必要としないでしょう。自力本願など不可能なので、イエスという他力を求めるのです。

過去を直視し、至らなかった点を素直に反省し、悔い改めて、主イエス・キリストに導かれて前進しつづけるのがキリスト者なのです。

「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」(箴言24:16)

私たちキリスト者は倒れても立ち上がれます。過去を恐れないからです。むしろ今後の戒めとしながら、神が与えてくださるヴィジョンに向かって、キリスト・イエスと共に前進し続けるのです。自分は弱い、でも弱いがゆえに、そこに神は働かれるのです。
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by heianchurch | 2013-08-31 22:41

自由について

たまに残念なキリスト者に出会うことがあります。彼らは言います。自分は自由だと。そして自由だから今を楽しむのだと言います。しかし彼らは知らないようです。自由や権利には責任が伴うということを。

自分がやりたい事をやりたいようにやることが自由なのではありません。人は完全に人との交わりを絶って生きて行くことなどできません。それ故、周囲の人に影響を与えることなく自分だけで行為を完結することができないのです。ですから周囲の人に対する配慮を欠いた自由は、所詮、独り善がり行動に過ぎません。そういう人のことを最近の言葉で「自己中」だとか「K Y」(空気が読めてないの略)と言うのでしょう。

パウロは次のように語っています。

「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(第一コリント10:23-24)

聖書ではこのように他人の利益をを心がけるように勧告しているのですから、自分の利益だけをひたすら追求する自己中でKYな人は、キリスト者として問題があると言わねばならないでしょう。

考えてみましょう。果たして私は自由を、他人の利益のために用いているのだろうか。他人のために自分がしたいことを思い留まることができているのだろうか。

自由を隣人のために用いることができるように神が導いてくださいますように祈りましょう。
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by heianchurch | 2013-08-21 00:08

やるべき事はすぐにやろう

大学時代の私の指導教授は海軍兵学校を卒業され、敗戦後、大学で政治学を学び、政治学者として数十年にわたって、それこそ天に召されるまで教壇に立ち続けられた方でした。激動の昭和を生きた方ですから、講義の中でも、論文の中でも「激動」という言葉をよく使われていたのを思い出します。

激動の時代であった昭和から平成になり、少しずつ先送りにしていた問題が露呈し始めました。そして今日、それらの問題は一斉に火を吹いて、国民生活を圧迫しています。

これらの問題を解決しなければならない政治家たちは好んで「棚上げ」という言葉を使っていますね。ですがこれは問題の先送りに過ぎず、責任の放棄と言われても仕方ありません。責任の所在がはっきりしないので、誰も責任を取ろうとしません。玉虫色の言葉で巧妙に国民を欺く遣り口は、戦前も戦後も変わっていないのです。

最近、過去の歴史をどう評価するかがイシューの一つになっています。歴史の清算や見直しは必要な事です。であるならば、過去から現在に至るまで共通の問題事項である権利義務関係や責任の所在のはっきりしない統治原理を正すところからしっかりやるべきではないでしょうか。国民が国に求めているのはそういうことなはずです。もう激動の時代のどさくさに紛れて一部の団体に有利になるような権力の濫用はやめて欲しいのです。

聖書でも次のように戒めています。

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ書4:17)

政治の世界だけではありません。私たちも問題の先送りが多いのではないでしょうか。為さねばならぬ事を知りつつもそれを為さぬは罪ということを忘れないようにいたしましょう。やらねばならぬ事に気付いたらいつやるのか。答えは簡単です。「今でしょ!」。

やらなければばらない事を放棄する無責任な人間になる事がないよいに神が導いて下さいますように。
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by heianchurch | 2013-08-21 00:06

神の選び・予定について

イエスを救い主として信じる事は、どうやら難しいようです。宗教的バックグラウンドを知らない人たちにとっては、約二千年前、宗主国ローマへの反逆罪のかどで十字架で処刑されたユダヤ人イエスが、あなたの救い主であると言われて、「はい、そうですか」とすぐに信じるのは至難の技でしょう。死刑囚が救い主というのですから、遠慮したい宗教だと思われても不思議ではありません。

しかしそのようなおっかなびっくりな宗教を信じているキリスト者がなぜいるのでしょうか。

その理由は、信じることそれ自体も神が与えてくださるからです。逆に言うと、神が信じる心を私たちに与えて下さらなければ、信じ得ないのです。この信じる心、つまり信仰が与えられた者が、イエスを救い主と信じるキリスト者になります。そして、このような神の救いの計画をカルヴァン派では、一般的に「神の選び」だとか「予定」と呼んでいます。

パウロはこの神による選びを次のように紹介しています。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ書1:4)

こうして世界の基が置かれる前、つまり天地が創造される以前から、神は、イエス・キリストを通して救うことを予定しておられたわけで、その予定に入っている人たちが上でも述べたように、イエスを救い主として信じることができるように信仰が与えられ、キリスト者になるのです。
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by heianchurch | 2013-08-17 00:05

ストレスの克服

現代社会はストレス社会だと言われています。ストレスが原因で自律神経に支障を来たしたり、不眠症になる人もたくさんおられるようです。

ストレスというものそれ自体が悪いものではありません。筋力を付けようとする時、バーベルなどで筋肉に負荷をかけて鍛えるように、人間も様々な障壁を乗り越えることで成長します。昔から「可愛い子には旅をさせよ」と言ったのも、早い時期に苦労させることで、人間的に成長させる必要性を知っていたからです。

問題は度の過ぎたストレスです。筋肉に許容量以上の負荷をかけると筋繊維が摩耗して体に甚大な悪影響を及ぼすように、人間も許容量を超えたストレスがかかると、心身両面で様々な問題が生じ始めます。

筋力は専門的な知識をもったトレーナーについて訓練すれば、効率よく安全に筋力アップが図れます。それと同じように、人間の成長のためにも人生のトレーナーについて指導を仰げば、無理することなく成長する事が出来るのです。

イエスはあなたに呼びかけています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ伝11:28-30)

オーストリアの精神科医であり心理学者でもあったヴィクトール・エミール・フランクルも不眠症の治療法について、次のように語っています。

「不眠症を治すには、神様の胸に抱き寄せられているのだと信じて安心して待っていることだ。」

ストレスによる様々な問題の原因は、ストレスが積み重なることで生まれる不安感です。そしてその不安感は自分の境遇を究極的に理解して共感してくれる人がいないと無意識に判断した時に起こるものです。ですからあなたの事をすべて理解し共感してくださる人生の最高のトレーナーであるイエスと安らぎへの第一歩を踏み出すことをお勧めしたいのです。

最近、「癒し」だとか「パワースポット」などスピリチュアルな言葉がよく使われています。宗教を毛嫌いし罵倒する人に限ってこういうのにハマって散財しています。そして究極の安らぎを得ることが出来ないので、次から次へとパワースポット巡りをしたり、一過性の安っぽい擬似的癒しを売り物にしているヒーラーを訪ね歩いている始末です。

そろそろ真のトレーナーについて歩み出してはいかがでしょうか。イエスはあなたの申し出を心待ちにしておられます。イエスをあなたの人生のトレーナーとして、コーチとしてお迎えしてはいかがでしょうか。心からお勧めいたします。あなたもイエスと共にストレスに押し潰されずに真の心の平安を満喫しながら素晴らしい毎日を送ってください。

主の恵みがあなたと共にありますように

アーメン
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by heianchurch | 2013-08-15 21:47

悩みの原因を突き止めよう

アメリカの整形外科医であったM.マルツは、自身の診療経験から人間の心理的側面の重要性に気付いて人間の心の重要性を説きました。彼は次のように著書の中で語ってます。

「習慣や人格を変えるのは、とても難しいように思われる。その理由の一つは、変えようとする努力を自分の内部ではなく、外部の問題に向けるからだと考えられる。」

私たちはさまざまな失敗をします。そしてそれに苦しみ、それから解放される事を願いながらも叶えられずに苦しみ続けます。そのような時、私たちは得てして、自分を苦しめている原因を外に見出そうとしてしまいます。もちろん原因の大半が外にある場合もあるでしょうが、起こった問題を私たちがどのように受け取ったかによって、同じ経験が私たちを苦しめもすればそうでない場合もあるのです。ようは自分が問題をどう受け取るか、つまり私たちの内部で起こる情動が肯定的であるか否定的であるかで大きな違いが出てくるというわけです。

イエスは次のようお語りになりました。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ伝5:44)

なぜイエスはこのように語られたのでしょうか。罪に定められる方は神であるから、人間が勝手に復讐心を持ったりするのは神に対する反逆になるというキリスト教会で説かれている教義的な側面もあるでしょうが、それ以上に敵を心の内で作り出してしまうと、四六時中その敵のことばかり考えるようになり、他の事に手が付かなくなり、結果として自分が心の内で作り出した敵が自分自身を支配する存在へとなっていく事を警戒しているのです。常にちらつく敵の姿に苛々して、遂には精神科にお世話にならないといけなくなる事すらあります。

ここで一つあなたに質問します。あなたを苛々させたり苦しめたりする人は、あなたの貴重な生活を奪う事が出来るほど大した人間なのでしょうか。決してそんな事はないでしょう。ですからイエスはそんなつまらん奴の事で、しょぼくれたり、いじけたりしないで、さっさと心のけりを付けるために、赦しちゃいなさいと勧めているのです。そうしないと私たちの心は自由を得る事ができないのです。自由なき心で、いかに神を求め、神の御言を黙想し、それに従う事が出来るというのですか。

最後に使徒ヨハネの言葉を紹介したいと思います。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(第一ヨハネ4:20-21)

キリスト者であるなら心にズシンと来る御言であると思います。私たちの心を神以外に支配させてはいけません。もし今、あなたの心を鷲掴みにしている嫌な奴がいたら、今すぐ彼の祝福を祈ってあげなさい。祝福は相手よりも権威あるものでなければできません。祝福できないということは、自分が相手よりも劣っていると認めている証拠です。だから心を支配されるのです。祝福し、赦し、そして忘れなさい。そしてあなたは自由を得て、キリストと共に軛(くびき)を共にして平安の内を歩めばいいのです。

主の恵みがあなたと共にありますように

アーメン
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by heianchurch | 2013-08-12 23:31

カルト宗教の問題

カルト宗教の問題が取り沙汰されて久しいですが、今尚、カルトは侮れない存在です。あなたやあなたの大切なご家族がカルト宗教の魔の手に引っかからないとは限りません。用心するに越した事はありません。

なぜカルトに騙されるのでしょうか。さっきほど、誰でも騙される可能性はあると言いましたが、その理由について少し紹介しようと思います。

まず第一に、騙される人の特徴として、自分で情報を組み立てる能力が乏しい点が上げられます。色んな情報を聞いて総合判断できないのです。

第二に、騙される人の特徴として、自分に都合のいい情報しか受け付けない点が上げられます。先入観・固定観念・思い込み・自己防衛・自己陶酔などに縛られているのです。

上の二つの特徴は、実は、全ての人が多かれ少なかれ持っているものです。問題はその事実を知っているかそうでないかで大きな差が出てくるという事です。知っている人は、騙されないように注意深く情報を収集して分析します。しかし、知らない人は他人任せになってしまいます。考えるという事は非常に疲れることなので、脳は出来るだけサボりたがるのです。他人任せの人は、完全にサボり癖がついた脳の所有者とも言えます。こういう人は楽をしたいので、自分にとって心地よい事を言ってくれる宗教、そして実感できるご利益を求めます。

聖書でもこの傾向を警戒して、パウロも次のように語っています。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第二テモテ4:3-4)

情報化社会を生きている私たちは、情報の津波に押し流されかねない状況にあります。しかし有益な情報は受動的に受け取るものではなく、能動的に掴み取っていくものなのです。知ろうとしなければ本当に必要な情報は集まってきません。情報を遮断して騙されるようにし向けているのは自分自身であることに気付く必要があります。カルトは騙されたい人に心地よい悪意に満ちた癒しを提供しているにすぎません。その癒しの裏にある「悪意」というものに気付く人は騙されないのです。

話をカルトに限定しているのでわかりづらいかもしれませんので、理解を助けるために政治の例をとって考えて見ましょう。政治は私たちの日常生活に著しい影響を与えます。日本は一応、議会制民主主義国家なので、選挙をして当選した議員を国会に送って政治に影響力を行使します。国の行く末や国家の運営など、とても大切な事が選出された議員たちよって決められて行きます。ですから国の事は勿論、自分の生活を真面目に考える人であれば、日頃から国の在り方や理想の国家運営等々を考えて、自分の考えを代弁してくれる議員を選ぼうと選挙に非常に関心を持ち、議員を十分に吟味して投票するはずです。比例代表では自分の理想を実現してくれそうな政党を選ぶはずです。ところが実際に選挙に行っている人がどれだけいますか。選挙はせずに文句だけ言う。典型的な愚民と言われて仕方ないでしょう。面倒臭い、投票しても無駄、色んな理由はあるでしょうが、こういう人たちは自分で考える事を放棄しているのです。自ら進んで政権与党に騙して下さいと言っているようなものです。議員を宗教家に、政党を宗教団体に置き換えれば、カルトに騙される人がどういう人たちなのかがわかるのではないでしょうか。政治家が国民の他人任せな性質を利用して歯の浮くような美辞麗句や実現不能な政策を出来るとうそぶいて人気を取るポピュリズム型衆愚政治を行うように、カルトの教祖もまた歯の浮くような言葉で褒めちぎり、証明できない霊の世界を巧みに利用して出来もしない奇跡を出来ると言って信者をその気にさせて騙すのです。政治家が結局は国民を無視して消費税増税などを強行するように、カルトの教祖も私腹を肥やすために献金を強要したりします。しかし、その時になって騙されたと言っても遅いのです。

情報は自分で取捨選択して組み立てて行くものです。組み立てるためには考えなければなりません。この作業が煩わしいとか面倒臭いと言う人は、騙され続け、ついには騙されている事自体に気づかず、それを喜ぶようになります。これを奴隷の幸福と言います。ストレスに疲れ果てている現代人にカルトの甘い誘惑が忍び寄っています。有名タレントが自称占い師に騙されたニュースがよくテレビで報道されていますが、彼らだって最初はほんの興味本位で占いをしたにすぎないのです。世間をお騒がせしたカルトじゃなくても、占いという形でカルトは身近なところで犠牲者を探し求めています。あなたがその標的になるやもしれません。

カルトには悲しいかなキリスト教の仮面を被った団体も多く存在します。それどころか正統派の教団に属していながら牧師が暴走してカルト化する事例も多数報告されています。騙されないためには、的確な情報を得る事が必要です。例えばキリスト教であるならば、自分でまず聖書を読んで見る事です。そしていきなり教会を訪ねずに、ネットなどで教会が正統派か異端やカルトでないかを調べるなど、能動的な情報収集努力が必要です。

最後に一言付け加えておきます。異端やカルトが自ら異端やカルトであるとはいいません。必ず正統派であるとうそぶきます。騙されてはなりません。騙されてからでは遅いのですから。
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by heianchurch | 2013-08-10 18:19

自分をコントロールする事の難しさ

私たち人間にとって一番コントロールしにくいものは何でしょうか。コントロールし難いものはたくさんありますが、その中で最も厄介なのは、自分自身ではないでしょうか。他人からよくない習慣を指摘されると、自分の事は自分が一番よく分かっていると言い訳しますが、分かっていないから指摘されたのですから、すでに論理が破綻してますよね。古より自分をコントロールする事の難しさが指摘されています。古代ローマの政治家であった小セネカは、「自分を統制下における者こそ一番強大である。」(Potentissimus est quī sē habet in potestāte.)と彼の著書「道徳書簡集」の中で語っています。

さて、自分をコントロールできる人とはどんな人なのでしょうか。聖書に次のように書かれています。

「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ書3:2)

言葉は心の中で考えている事を発するわけですから、何を心の内に宿しているかが大切です。イエスもまた次のように語られました。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(中略) あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ伝12:34-37)

なぜ私たちは、こんなに大言壮語するのでしょうか。それは、自分の弱さを隠したい衝動があるからなのでしょう。私たちは四六時中、他人の目を気にしながら、見栄を張って生きているようなものです。最近流行りのコスプレも、憧れのアニメのキャラのコスチュームで自分を包み込み、アニメキャラという鎧で自己を暫しのあいだ世間から消去する事で、世間体や見栄も張らず、自己の欲求をアニメキャラとして爆発させる事でストレスの解消を図っているのかもしれません。ありのままの姿で生きて行きたい。でもありのままの姿は、自分で考えてもおぞましい姿。他人様にお見せする事の出来る代物ではない。そこでどうしても見栄を張ってしまう。でもそれは本当の自分ではない。この悪循環が人間を疲れさせ、ついには、本当の自分を見失わせ、諸悪の原因となってしまうのです。勇気を出して、自分の弱さを認める事が、この苦しみのスパイラルから逃れる唯一の方法です。

キリスト教では、「罪を認めなさい」という言葉をよく使います。ひょっとしてあなたもお聞きになった事があるかもしれません。するとよく「私は他人様から後ろ指指されるような悪い事はしていません」と言われる方が多いです。確かに、聖書でいう罪に、法律上の罪、つまり、犯罪や不法行為等々も含まれますが、聖書のいう罪は、神の喜ばれる生き方を全うできない状態、つまり、聖書で神が私たち人間に要求している事を行っていない事を言います。神は私たちに、自力本願は無理だと語られます。心の中で否定的な考えが出る人は、まず脱落です。心の中で考えている事を語り、そしてそれを現実に行動するのが人間だからです。いい事をしよう、この目標を達成しようと努力しますが、何故、私たちは失敗するのですか。それは、私たちが弱いからです。

キリスト教には「原罪」という考え方があります。聖書によりますと、人間の始祖はアダムとあります。後に、独りぼっちは良くないという事で、アダムのあばら骨でエバという女を創り出しました。この夫婦はエデンの園に住み、園の果実を食べて幸せに暮らしておりました。園の果実は何を食べても良かったのですが、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と神は命じられました。ところが蛇がエバをそそのかし、夫のアダムとその食べてはならぬ実を食べてしまいました。すると「ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)とあります。裸であることを知って、彼らはお互いどのように自分が思われているのかという他人の目をこの時以来、気にするようになったのです。この事件を契機に、神と人との関係に断絶が生じました。神は聖なる方なので、悪と交わることが出来ません。ですから、神の命令に背いた人間とそれまでのように交わることができないのです。このように神との断絶状態をキリスト教では、「不義」と言います。

そこでこのような疑問が生まれると思います。神は何故、誘惑に陥るような善悪の知識の木を園に置き、しかもその事をアダムとエバにお語りになったのか、と。実はここが非常に重要なポイントです。堕落以前のアダムとエバには、自由意志がありました。この自由意志という単語が、神学的に使われる時と哲学的に使われる時で意味に大きな隔たりがあるので、多くの誤解を与えてきました。キリスト教、特に、カルヴァン派でいう自由意志とは、神の喜ばれる正しい事を常に選ぶ意志という意味で使っています。ですから、アダムとエバは、蛇の誘惑に翻弄される事なしに、善悪の知識の木の実を食べない意志を持てたにもかかわらず、自ら食べるという意志を選び取って神に敵対したので、神の義を失い、不義の世に暮らす事になったのです。この事件を境に、人間に二つの大きな恐れが入り込んできました。罪と死です。この二つを武器に、この世の王サタンが人間を恐怖で支配しているというのが聖書的見方です。いずれにしても神の喜ばれる正しい道を選択できない不完全な状態に人間はなってしまいました。もはや自分で正しい道を完全に選び取る力がなくなったのです。これをカルヴァン派では、全的堕落と言います。完全に堕落して神に喜ばれる最善の道を選択できないので、人間がいくら努力しても救われない。自力本願はないのです。

でも人間は、正しい道を選択し続け、平和な生活をし、死後も素晴らしいところへ行きたいという根源的な欲求があります。しかし足かせがあります。全的堕落により、神との関係が断絶しているので自由意志を働かせて、正しい道を選び取りそれを貫徹する事ができないのです。

そこで神は、まず、人間が、何が罪であるか、つまり、神が喜ばれない事は何かを知って、自分の弱さを知るようにと律法を与えられました。こうする事で、自分の努力では決して救いに到達し得ない事を知らしめ、自分の弱さを自覚させられたのです。でも、弱さを自覚するだけでは、神との関係は回復しません。神は聖き方であるので、悪と交わることが出来ません。ですから人が神と和解するためには贖いが必要です。罪から来る報酬は死です(ローマ書6:23)。ですから、人間が神と和解するためには死が要求されるのです。すると全ての人の命が要求されるので、全ての人間が死なざるを得なくなります。それは困ります。そこで私たちの贖いのために神に受け入れてもらえる完全な生贄が必要です。その生贄となって下さった方が、イエス・キリストです。

イエスは神の子です。神は御子を生贄にして私たち人間との関係を回復する道を開いて下さいました。イエスが人間の罪をかぶって代わりに死んで下さった事を信じる者に和解の道を開かれました。イエスを信じる者は、神との関係が回復します。この状態を「神の義」といいます。

それでは、どのような人がイエスを信じられるのでしょうか。カルヴァンは神の主権的選びを主張しています。これは神学的論争が絶えない部分ですので、深入りしない方がいいでしょう。しかし、これだけは言えるでしょう。自分が正しいだとか、自力でなんでも出来ると考える人に、イエスを信じる事は難しいでしょうし、それ以上にイエスを必要としないでしょう。しかし、自分の限界を知り、自分の弱さを自覚している人こそイエスは必要とされるのです。

ここまで述べてきた聖書の話やイエスの事も、自分の弱さを知らない人にとっては荒唐無稽な戯言にしか聞こえないでしょう。パウロも「十字架のことばは、滅びに至る人々(信じない人々)には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と語っています(第一コリント1:18)。キリスト者とは、自分の弱さを認めた者です。私はここであなたに一つ質問してみたいです。あなたは、自分の過去を振り返って、あの時ああして置けば良かったと後悔した事はありませんか。もしあるというならば、考えて見てください。今は後悔しているかもしれませんが、過去においては、あなたは最善の判断をしてその行動を選び取ったはずです。誰も最悪な結果を期待して最悪な選択などしないでしょう。でも、私たちは結果としては、最悪なものを選び取っている事が多いのです。私たちの判断力の不完全さはこいうところを見ても明らかでしょう。

私たちは、自分を完全にコントロールするのは不可能なのです。逆にそのような制御不能な弱い自分を認める事が大切なのです。パウロは自分の弱さをなんとか克服しようとして、神に一生懸命祈りました。その時、神から与えられた啓示をコリント人への手紙第二の中で語っています。この原稿の締めくりとしてそれを紹介したいと思います。

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリント12:9-10)

自分を完全にコントロール出来る人はいません。イエスを信じて、真の自由を得られるように心からお勧めしたいと思います。
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by heianchurch | 2013-08-09 15:34

暑い夏が続いておりますが

暑い夏が続いておりますが、如何お過ごしでしょうか。

この季節になりますと、織田信長に武田家が攻め滅ぼされた時、

禅僧快川が火をかけられた甲斐の国の恵林寺の門上で端坐焼死を決意しながら発した

偈(げ)である「心頭滅却すれば火もまた涼し」を思い出します。

快川の偈は中国の漢籍、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」からの引用と思われます。

意味はご存知の通り、無念無想の境地に至れば、火さえ涼しく感じられる。

であるから、どんな苦難にあっても、その状況それ自体に縛られずに乗り越えて

心にも頭にも留めないようにすれば、苦難など感じないという意味です。

イエスもまた「あなたがたは、世にあっては患難があります。

しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ伝16:33b)と

語られました。

過酷な暑さにも、そして過酷な人生の荒波にも勇敢に立ち向かい、

約束された勝利を得ようではありませんか。

主の恵みがありますように。

アーメン
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by heianchurch | 2013-08-09 08:56

如何お過ごしでしょうか。

如何お過ごしでしょうか。熱中症にかかって病院に担ぎ込まれる人が急増しているとメディアで報道されています。自覚症状のないまま発症するケースが多いとの事です。知らないうちにとんでもない事になってしまうという面では、私たちの日常生活における人間関係のトラブルも似たところがありますね。最初から病気になりたい人はいないのと同じように、最初から人間関係を悪化させようという人もおそらくいないでしょう。自覚症状なしに知らないうちに発症するのが恐ろしいところです。

「思い内にあれば色外に現る」という格言があります。出典は漢籍の「大学」からのようです。心の中で何か考えていると、言葉や動作、顔色などに自然と現れるという意味です。心の中で常日頃考えている事が私たちの具体的な行動となって知らないうちに出てくるのです。だから日頃考えている事に注意を払う必要があります。

イエスも次のように語られました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ伝7:20-23)

私たちは心の内面に何を満たすかに注意しないといけないようですね。心理学者や大脳生理学者も日頃何を考えるかが大切であると指摘しています。人間の意識は、自覚できる顕在意識と自覚できない潜在意識に別れており、私たちの日常生活の大半は、潜在意識の計り知れない影響下にあると言っています。そしてこの潜在意識は、私たちの日頃の考え方によって意識の深層に入り込んで形成されるそうです。すると一つの行動を取る時、顕在意識は頑張るぞと信号を送っても、より行動に影響力のある潜在意識が常日頃否定的感情によって形成されていると、頑張ったところでムダだという逆の信号を送り、結果的に行動を頓挫させてしまうのです。それほど常日頃の考え方や何を話すかが大切だという事なのです。

心の内を良いもの、つまり聖書の御言で満たさずに目せかけの善行に励むような事は慎まなければなりません。イエスはそのような見掛け倒しのパリサイ派の者達に「白く塗った墓のようなものだ」と批難されました。その理由をマタイ伝23章28節に見る事が出来ます。「あなたがた(パリサイ派)も、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」

あなたは常日頃、心で何を考えていますか。心の中にあるものが行動となって出て来ます。もちろんパリサイ派のように見掛け倒しの行動、つまり偽善も可能でしょう。しかし安いメッキはすぐ剥がれるのです。ですから常日頃、聖書の御言に親しみ、その御言を黙想し、その御言を生きる者になる事が大切です。一度チェックしてみてはいかがでしょうか。あなたが日頃どんな事を考えているのかを。そうすれば知らないうちに人を傷つけたりする事もかなり減ってくるでしょう。見掛け倒しの善行は単なるお節介になりがちですが、御言に基づいた行いは、する側もされる側の徳を高めます。だから人間関係の熱中症に陥る事は避けられるのです。

御言が私たちの全てとなり、心が御言で満たされるように神が導いてくださいますように。

アーメン
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by heianchurch | 2013-08-07 21:24