イエス教長老会 平安教会

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アガペーの愛

キリスト者はよく愛という言葉を口にしますし、教会の説教でも必ずと言っていいほど愛という言葉が出てきます。キリスト教は愛の宗教だと言われたりもします。キリスト教を語るにあたって無視することの出来ない愛。しかし、キリスト教でいうところの愛の概念を理解している人は多くないと思われます。

私たちキリスト者は、愛が人間社会から生み出されたとは考えていません。愛もまた神が創造されたものと考えています。神は祝福として人に愛をくださったのですが、堕落してその愛を悟り得なくなったのです。

こう聞くとますます意味が分からなくなったと思います。それも当然です。世間一般で使われている愛と聖書で語られている愛は、全くの別物だからです。新約聖書はコイネーというグレコローマン時代の庶民が使っていたギリシャ語で書かれています。ギリシャ語では、愛を意味する単語が何個もあります。男女間の恋愛や夫婦愛はエロスといい、世間一般で愛といえば大抵これを指しているようです。その他に情愛や肉親間の愛を表すストルゲー、友愛や兄弟愛を表すフィリアー、そして自己犠牲の愛であるアガペーがあります。世間では普通、愛といえばエロスを想定して会話をしているのですが、キリスト者は自己犠牲の愛であるアガペーを想定して会話をしますので、話が通じないのも当然です。

生まれつきのキリスト者などほとんどいないわけだし、キリスト者も信仰を持つ以前はエロスしか知らなかったわけですから、いくらキリスト者になったからといってアガペーの愛を前提にしてキリスト者以外に一方的に話をするというのは控えるべきでしょう。これでは信者と未信者の間に齟齬が生じるのも当然と言わざるを得ません。

さて、聖書は、私たちにアガペーの愛を理解させるために、神はキリストを犠牲(いけにえ)にされたと教えています。キリスト・イエスは、私たちが罪の赦しを得ることができるようにと、罪を全部被って、身代わりとなって死んでくださったという文字通り自己犠牲の愛を示されたのです。そして、私たちも同じように人々のために、自己犠牲の愛に生きることを求めています。

12弟子の一人、ヨハネは次のように語っています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)

しかも、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」とまで言っています(第一ヨハネ3:15)

そして、「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(第一ヨハネ4:8)とあります。

キリスト者もこれらの御言をよく知っていれば、容易くアガペーの愛を口にすることなど出来ないはずです。キリスト者にとって愛とは命懸けなのです。逆に、そのような命を懸けたアガペーの愛が教会から影を潜め、キリスト者であるにもかかわらず自己中心的な愛に没入する者が増えたことが、教会の凋落の原因なのかもしれません。

今日はヨハネの訴えかけに耳を傾けましょう。

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行ないをもって誠実に愛し合おう。」(第一ヨハネ3:18)

命懸けのアガペーの愛を悟り、実践することが出来ますように。
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by heianchurch | 2013-09-20 22:53

偽善を警戒しよう

カルヴァン派の教理教育でよく利用されているウエストミンスター小教理問答の第一問は、カルヴァン派の信条を端的に表現しているとして有名です。

(問1) 人のおもな目的は何であるか。

(答) 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。

ジャン・カルヴァンは神の主権を強調しました。プロテスタントの離脱・独立により西方教会が分裂するまでは、高級祭司の権威が膨張し過ぎて、それが聖の俗化をもたらしました。カルヴァンは神と人との仲裁者はイエス・キリスト以外に存在し得ないし、救いへと導かれる方も祭司ではなく全能なる神ご自身であるとして、神の絶対主権を提唱したのです。主権が神にあるのに、神の名により権力を振りかざす当時の堕落したカトリックの違法性を証明しようとしたのです。

神の主権的導き(聖定)により召し出されたキリスト者は、前掲の(問1)に対する答を信仰生活の目標にしなければなりません。カルヴァン派のキリスト者であるならば、必ず学んだはずのこの教理を果たしてどれだけの人が実践出来ているでしょうか。

カルヴァンは神の絶対主権を唱えることで全ての信者を神の前で公平であるとし、神から与えられた賜物に従って働くことが、神の栄光をあらわすことになると同時に、神を喜ぶことにつながるとしながら、教会における職分は賜物の違いに過ぎず、カトリックのようなヒエラルキーではないとしました。

ところがやはり人間は罪深いのか、カルヴァン派の教会の一部は、職分をヒエラルキーに変質させてしまい、その職分が神の名により付与された事を執拗に強調して、神の後光を帯びて信者を支配しようという堕落した中世カトリックの祭司以上に悪質な事をやってのける不届千万な連中が跋扈し始めました。特に、韓国から流入した長老派にこの傾向は顕著です。

さて、カルヴァン派の一部でなぜこのような脱線が始まったのでしょうか。その理由を知ることができる言葉があるので、それを紹介したいと思います。

「内的に生活して神を喜ばせ奉ることができず、ただなだめ奉ろうとする者は、禍なるかな。」(クレルヴォーのベルナルドゥス)

12世紀のフランスの神学者であったクレルヴォーのベルナルドゥスの言葉です。御言を生きる生活をして神に栄光を帰することをせず、礼拝行為に終始して神のご機嫌取りをするような連中を禍だと語っています。神のご機嫌取りは、敬虔さの指標ではありません。ところが、禍なる連中は、ご機嫌取りの演技を敬虔さの現れであるように見せかけるのです。こうして彼らは、腐敗した中世カトリック教会のミニチュアを自分らの教会に作り上げているのです。

イエスはこう語っています。

「イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」(ルカ伝12:1b)

ここに出てくる「偽善」という言葉のギリシャ語は「ヒュポクリシス」という単語が使われており、元々の意味は、演技するという意味です。イエスがここで言いたかったのは、パリサイ派の連中が栄光を帰して喜びとするのは、そもそも神であったはずなのに、神を仰がず、会衆に見せるために自分の敬虔さを演技して見せていたことを警戒し、弟子たちに影響されて真似しないようにということだったのです。

人間には他人に評価してもらいたいという根源的欲求があります。聖書ではそれを肉の欲と呼んでいます。キリスト者はこの肉の欲に影響を受けないように御霊の導き、つまり神の主権的導きに従って生きるのです。ですから私たち人のおもな目的は、神の主権的導きにより、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」なのであって、神の栄光をあらわしているふりをして、永遠に神を喜んでいるように見せかけて高慢になることではないということです。斜陽する今日の教会の問題の根元の一つは、まさにここにあるといっていいでしょう。信仰とは人に見せびらかすものではありません。ただひたすら神に感謝し、御言を生きるのみです。
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by heianchurch | 2013-09-14 21:45

まずは悔い改めから

2020年の夏季五輪開催都市として東京が選ばれました。子供たちに夢を与えられるという点では、非常に喜ばしいことだと思います。みんなで盛り上げていきましょう。

さて、開催都市として東京が選ばれた理由の一つに、豊富な資金がありました。巨額ではありますが、捻出可能ではあるでしょう。ただ私が心配しているのは、東日本大震災の被災者たちを財政的に支えつつ、それが可能なのかということです。それともう一つは、政財官界の構造的問題を解決しながらオリンピックの準備ができるのかということです。政財官の癒着が隠蔽体質の原因ですし、そのことが震災後に東電の問題などでより鮮明になりました。最近は、検察や警察の汚職まで深刻化しています。

ウラル国立大学のゲンナジ・ブルブリス教授は、「原発のような巨大なシシテムが事故を起こす時は、必ず国家や社会の構造の不具合もパラレルに起こっている。」と述べています。原発問題がなかなか解決しない理由の一つに政財官界の腐敗と隠蔽体質があるのは間違いありません。これを綱紀粛正せずにオリンピックの準備に突入したら、原発問題を犯したのと同じような面子が、同じような失敗をしかねません。これだけは御免蒙りたい。

いろいろイベントをやって活気付くにはいいことですが、構造改革という国家の悔い改めがなされない状態でイベントばかりやったところで、国はますます疲弊するだけです。ですから、素晴らしいオリンピックにするためにも、安倍首相に国家的大手術を敢行して、腐敗や汚職といった悪性腫瘍を取り除いてもらいたい。その上で、国民が一丸となってオリンピックの準備に励めばいいと思う。

被災地の復興もオリンピックの準備の一環です。絶望的状況から立ち上がる姿が世界中にどれ程の勇気を与えるでしょうか。これは外せません。これをはずしたら世界中から自国民を犠牲にしてまでイベントにこだわる道楽国家との誹りを免れないでしょう。

やはり、国も私たち一人一人も悔い改めて再スタートを切る必要がありそうです。今日は最後にイエスの12弟子の一人であったヨハネの言葉を見てみましょう。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:8-9)
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by heianchurch | 2013-09-10 22:53

弱い箇所に働いてくださる神様

自分が今どういう状態におかれているのかを知ることはとても大切なことなのですが、それを知ることは非常に難しいようです。どういう状態にあるのかが分かれば、打開策が見つかります。事態を好転させるためには、冷静に状況を把握して事後策を練らなければなりません。

一方、自らのおかれている状況を冷静に分析すると、不甲斐ない自分の現住所が明らかになりますので、これを恐れて冷静な分析を断念してしまう人も多いようです。しかし、これを恐れていては、前進が阻まれるだけでなく、ついには舵の効かなくなった船のように、世間の波に翻弄されて押し流されるがままの人生になってしまう恐れがあります。

自分を直視する事は非常に大切なことです。そこから逃れようとしないように気をつけましょう。

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ書4:17)

現実逃避はやめて、聖書の御言という鏡に自分を映し出して、自分の至らない点や罪、弱さなどを素直に認めて、その弱い箇所に神に働いていただきましょう。
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by heianchurch | 2013-09-06 22:56